本文へジャンプ
 

 私たちは生きています。生きるとは皆、例外なく歳をとって老人となるということです。旧約聖書『コヘレトの言葉』12:38に、老いて老人となる現実が、次のように記されています(1048)
「その日には 
 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。
 粉ひく女の数は減って行き、失われ
 窓から眺める女の目はかすむ。
 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音は止む。
 鳥の声に起き上っても、歌の節は低くなる。
 人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。
 アーモンドの花は咲き、イナゴは重荷を負い
 アビヨナは実をつける。
 人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。
 白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。
 泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。
 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。
 すべては空しい、と。」

 コヘレトは、老人の肉体的衰えや特徴を的確に述べています。物音にも震え上がり、重いものを持てなくなる。付き合いは減り、労働もできなくなる。腰が曲がり、髪の毛は白くなり、目はかすみ、朝早く目覚めるようになり、高い声は出しにくくなる。高い所には上れなくなり、平地なのにつまずいて転んでしまう。やがて死んで弔われる。肉体は塵に帰り、霊は主に迎えられる。
 このように老いて老人となるわけです。この当たり前の自然のことを、素直に受け入れられる人と受け入れられない人とがいます。このような違いがどうして起こるのでしょうか。
 それは老いることを、醜いとか悪いとか恥ずかしいというようなマイナスのイメージを持ってしまうからではないでしょうか。
 確かに若い人と比べたら体力は落ちる一方です。物忘れもますますひどくなるでしょう。何かをできる、できないで推し量るならば、できないことが段々と多くなるのが老いるという現実です。

聖書は老いること、老人となることを、決して否定的に見てはいないのです。むしろ祝福されている見える姿、形なのです。
 『サムエル記上』2:3132(旧約432)には、神様が祭司エリの家への刑罰として「あなたの家には永久に長命の者はいなくなる」と言われました。神様の祝福、恵みとは、「あなたの家には長命な者がわたし(神様)の御前に歩む」ということなのです。
 教会から老人がいなくなるのではなく、老人がいる教会が祝福されている姿です。
 日立教会には85名の教会員中75歳以上の教会員が21名おられます。24.7%です。4人に一人が75歳以上です。恵まれ祝福された教会です。多くの老いた方々に、ますます主の祝福をお祈りします。