被造物のうめきと神の約束

             説教:Jean Cuanan-Nalam( シリマン神学大学教授)
             通訳:鈴木脩平(日本聖書神学校教授)
             2013年5月19日()  主日礼拝説教

          聖書:ローマの信徒への手紙8章22節

 
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」。パウロはローマの信徒への手紙の中で、このように述べています。昨年、台風パブロがネグロス・オリエンタルの海岸を襲った時、私は被造物がうめいているさまを目の当たりにしました。私たちが住んでいる牧師館は海からほんの数メートルの場所に建っています。その台風が私たちの住んでいるところに上陸するというニュースがあったとき、私たちは必要なすべてのものを準備し、子どもたちと共に、より安全な教会員宅に移る手筈を整えました。けれども、すべてのことがあっという間に起きたのです。自分たちの住んでいる場所から離れることを決断する以前に、すでに強風が吹き荒れていました。巨大な波が海岸に荒々しく打ち寄せていました。風は音を立てて吹き荒れており、それはとても恐ろしかったので、私の幼い息子たちは泣きだし、そして私自身、生命の危険を感じていたのです。嵐が最も激しくなった時、警察と救助隊の人々が家の扉をたたき、その場所を離れるようにと言いました。救急用の物入れ袋を持って、避難所行きのトラックに急いで乗り込みました。 

台風パブロが私たちを襲ったその1週間後、私はまた、被造物のうめきを耳にすることになりました。それは、私の二人の息子であるDasigAbyanが、病院で数百人の子どもたちと共に、出血を伴うデング熱に侵されていることがわかったのです。その病院において、私は多くの人々のうめき声を聞いたのですが、それは検査のために子どもたちの体から血液を採取する際の痛みのうめきであり、それはまた、病気の子どもたちの世話のため、疲れ、睡眠不足になった母親たちの苦しみのうめきであり、さらにそれは、愛する家族を失った人々の嘆きの声でした。被造物はうめいています。そのうめきは、様々に違った音を響かせ、違った姿を見せます。私たちは、大地が揺れ動くとき、そのうめきを聞きます。そのような場所においては、あらゆる瞬間が永遠のように思えます。そのとき、人々は何をしたらよいのか、どこへ行ったらよいのか、わからずに、逃げまどい、恐怖のあまり叫ぶのです。洪水が瞬時に襲いかかり家々を呑み込むとき、人々はうめき声を上げます。膨大な数の人々の殺りくによって愛する者たちを失った家族が嘆くとき、そのうめきを聞くのです。 

被造物の管理を託された人類が、その責任を十分に果たさない時、被造物はうめきます。産業の発展が、人間関係よりも重要になってしまっているのです。協力し合う努力をすることよりも、個人主義がもてはやされています。何事もスピーディーにこなすことが、深い思索のための静かな時間よりも、必要だと感じられているのです。私たちは、被造物を管理することをせず、自分に都合よく人や物を操作するようになり、また人間としての責任を放棄して大切なことに気付かない者、怠慢な者となっているのです。
 神は私たちに被造物を管理する賜物を与えたのですが、それは私たちがそのような務めを責任もって果たすことができる、と神が思われたからでした。しかし、悲しいことに私たちはその責任を果たしていないのです。私たちは、私たちの既得権益よりも神の愛はもっと素晴らしいものであることを、証明することができないでいます。イエス・キリストに従って生きることは、私たちの歪んだ夢や野心よりももっと価値のあるものなのだ、ということを証明できないでいます。聖霊は激しい怒りよりもさらに深く人間の心に息づいていることを、証明できないでいます。私たちはまた、被造物の管理は、謙遜な心をもって行うことであり、傲慢な思いによってではない、ということを証明できないでいます。大切なのは憐みの心であって、憤りではないことを、知恵であって知識ではないことを、証明できないでいるのです。 

では、希望はどこでその音色を鳴り響かせているのでしょうか?これらのうめきの只中に果たして希望を見出すことができるのでしょうか?母親が産みの苦しみのなかでうめくとき、彼女は新しい命が今まさに誕生しつつあることを思うのです。体が苦しみうめくとき、私たちの良心は、健康上の悪しき習慣やライフスタイルをやめなければならないことを、また体はより集中的なケア、治療、医療を必要としていることを、私たちに気付かせようとしているのです。感情的なうめきの中で、私たちの心は、その人と和解しなければならないのか、それともその人との関係は断絶しなければならないのか、ということを考えなければなりません。社会的なうめきの中で、破壊的なシステムは正されなければならないという徴(しるし)を与えられます。そして自然災害の中で、生態学的環境が人間の間違った行動によって混乱し、脅かしを受けている、というシグナルを受けているのです。それゆえに、これらの様々なうめきは、何ものかに対し直ちに注目する必要があることを告げているのです。したがって、うめきは、変革のとき、浄化のとき、再検討のとき、破壊のとき、もしくは再構築のときが近づいていることを示しているのです。
 しかし、私たちはまさしくうめくがゆえに希望を持つのです。うめくことなしには、私たちは希望を持つことはできません。私たちは、私たちの心の中で何ものかが打ち砕かれてしまっているがゆえに、新たにされることを望み見るのです。私たちは誰かが傷ついているがゆえに、赦すことを望み見るのです。私たちは何ものかが破滅してしまったがゆえに、回復することを望み見るのです。私たちは私たちの内側が死んでしまっているがゆえに、新しく生きることを望み見るのです。私たちは、何ものかがバラバラになってしまったがゆえに、そこに橋を架けることを望み見るのです。私たちは、何ものかが機能しなくなっているがゆえに、それを変えることを望み見るのです。私たちは何ものかが破壊されてしまったがゆえに、再建することを望み見るのです。
 そうです。被造物全体が望み見ているのです。あなたは、死んだ土地に育つ小さな植物のうちに、生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声のうちに、希望の響きを聞きます。あなたは嵐の後の晴れ渡った空のうちに、地震の後に出現した島のうちに、希望の徴を見ます。あなたは、干ばつや乾季ののち、咲いたばかりの花の香りのうちに、希望のかぐわしい匂いをかぐのです。あなたは、長い間失われていた友人と抱き合ううちに、瀕死の状況から生還した人々の救いの物語のうちに、希望の心を感じるのです。 

私たちはまた、神さまから尊い財産の管理をゆだねられた者たちとして新しくされることを望み見るのです。希望の内にこそ新しい命があるがゆえに、神は私たちに希望の賜物をお与えになりました。その新しい命とは、命や財産をまったく破壊してしまうほどの災害ののちにさえも存在するような命のことです――それが地震であれ、2年前日本で皆さまが経験されたような津波であれ、あるいはまた、巨大な洪水と、多くの人々の命と多くの共同体の経済にダメージをもたらしたきわめて強力な台風であれ、それらの災害ののちにも、新しい命は生まれるのです。事実、日本においてであれ、フィリピンにおいてであれ、また世界のどの場所においてであれ、それらの災害がどれほど破壊的であっても、死と災害の中から新しい命をもたらす神の力は、そうした破壊的な力をはるかに上回るのです。新しい命によって、私たちの行いのうちに新しい意味を見出します。私たちは、熱心に、忍耐強く、しかしまた積極的に、希望をもって待ち望みます。地球環境のケアにかんする様々な努力や運動のうちに、積極的な希望の徴を見ることができます。私たちは、罪のゆるし、破壊からの回復、それまで悪い関係にあったもの同士の和解、相手をありのまま受け入れること、そして救い――そうした約束をささやく神のことばを信じます。これらの神の約束は、私たちに、忍耐強い、不屈の、そして行動を伴う信仰をもとめます。
 神がもたらす希望を信じることは、美しい生き方となります。それは私たちに、より寛容になること、より忍耐づよくなること、より鋭敏になること、より感受性ゆたかになること、そしてより平和的になること、を教えるのですが、これらの生き方はまさに、信仰によって培かわれたよき管理人を特徴づける生き方なのです。神がもたらす未来は、私たちが期待するものとは違ったものかもしれませんが、神の平和の約束はそのような未来のうちにあるのです。私たちの信仰に日ごとに戦いを挑む苦痛に満ちた多くの人間の表情にもかかわらず、うめきはその死を迎えるのです。なぜなら、神がもたらす希望の賜物は、そのうめきがもつ死のとげの力をこれまでずっと圧倒してきたからです。 

日立教会、日本聖書神学校、シリマン大学神学部は、これまで協力関係・パートナーシップを築き上げてきましたが、それは次のような世界における私たちの希望のひとつの実例であり、具体的なあらわれです。すなわちその世界とは、調和のとれた生き方に向かって、私たちのもつ力を、知識を、賜物を、結集し、他者のために用いる、そのような献身的な努力を必要とする世界のことです。きょう、そして将来、何が起ころうとも、私たちをつねに支え、強めるもの、それは、この希望の賜物と、同じ神への信仰であり、そしてこの被造世界全体が新たにされるようにと、私たちのために死んでくださった同じキリストへの信仰なのです。 アーメン。





 

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